マイルールが自分を苦しめる?常識のしがらみ

常識にとらわれると苦しい



私は日常生活の中でことあるごとに「普通は…」「常識的に考えて…」と物事を判断して、当てはまらない行動をする人間に不満を持ちやすいです。


自分の常識や普通の枠を超えた人物が現れて心をかき乱されるたびに「自分は普通ではないのか」「常識って何?」「普通って何?」「私が変?」と苦しんでいました。



一度「常識」という感覚を物事の判断基準に据えてしまうと、自分に対しても他人に対してもその基準から外れることにとても敏感になります。



そんな経験ありませんか・・・?



今回はこの「常識のしがらみ」から逃れたくて色々調べてみました。



そもそも常識とは?普通とは?



常識(じょうしき、英語: common sense)は、社会的に当たり前と思われる行為、その他物事のこと。社会通念ともいう。対義語は非常識(ひじょうしき)。

Wikipedia




普通というのはそれぞれが持っている基準を决めるものさしであって、特に変わらないこと、ありふれていることを指します。


このものさしはあくまでも個人が定めるものなので、人によって変わるんです。そう考えると、自分の「普通」って誰にでも通用するものではないんですよね。



常識は常に変化している



今回改めて調べてみたら、自分が経験した狭い社会の中で培った「普通」や「常識」って当たり前じゃないのかも・・・?と思えてきました。


と言うのも、多様性が認められる教育を受けて他者の価値観や偏見を押し付けられずに育ってきた世代の「常識」と、教師など一定の価値観をもった人から“こうあるべき”という他者の「固定観念」のようなものを押し付けられて育ってきた世代の考える「常識」が同じなわけがないな、と。



私たちアラサーってちょうど学校でゆとり教育とそれ以前の教育が切り替わっていく境目の世代なんですよね。



どちらも経験しているからこそ、どちらが良いとか悪いという話ではありませんがやはり違いは感じてきていると思います。


常識はメディアを通じて変ずることがある。常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。

Wikipedia




とも記載があるんですが、私個人TVを全く見ず自分が得たい情報によって視聴するメディアを選んでいるので何もしなくても入ってくる情報って限りなく少ないです。


普段ノイズのように溢れている他者の価値観や、操作された情報などをなるべく無意味に取り込まないように意識しているので・・・


私の「常識」と時代によって変ずる「常識」って一致していないのかも・・・?


それぞれ自分なりの「常識」を持って自分の「常識」に従って行動しているのに、その「常識」自体が一致していないから理解し合えなかったんですね。


今の時代の「常識」はものすごいスピードで変化していることが想像できます。


情報源が限られていた時代には触れられる情報が限局的なので、それぞれが持つ「常識」もある程度一定のものだったと思うんですよ。たぶんね。


それに比べてこの情報社会の中では、同じ時代に生活しているのに個人が持つ「常識」がそれぞれまったく違う価値観で構成されているんです。


私のようにたくさんのメディアに自動的に触れていない人間はその変化のスピードに追い付くのは難しい。そう考えると、もう「常識」という基準で物事を判断するのは自分を苦しめるだけだといろいろ調べてやっとわかりました。


多様性の陰で生まれる違和感



いろんな「常識」を持つ人がそれぞれ自分の「常識」を基準に好きに意見することが認められているがゆえに、私自身も含め本当に世の中潔癖というか、神経質というか・・・



そんなふうに感じる瞬間はありませんか?



そんなことをぐるぐる考えて、世の中に疲れ果てる瞬間も。



私は最近よく感じます・・・


私自身、普段はこういう世の中のこととか他人のこととか本当にどうでもいいんです。


そんな生活の中のノイズみたいなものに全く興味がないし意識的に考えないようにしているんですが、生きているとどうしても他人と関わらないといけない瞬間ってあるじゃないですか。


一人一人が少しだけ意識すれば保てる日本特有のいい部分を「多様性」がかき消しちゃっているのを感じて、急に将来が不安になってしまう瞬間ありません・・・?ない・・・?


こんなにいろいろ便利になっているのにどんどん生きづらくなっていくのはなんでなんだろう・・・


もちろん「自由」でいいんだよ、「本当に嫌なこと」はしなくていい。



でも、嫌なこと全部が全部「100%嫌なこと」みたいに捉えて敏感になりすぎてないかな~と思う。



自分がいま大きな声で主張している小さな不満の声の一つ一つが、この先の人生の自分が進む道をどんどん狭く細く苦しくしていないかなってすごく心配。



多様性を認められているがゆえに生まれた歪み(ひずみ)なのかな、とちょっと苦しく思ったりもしています。



 
おばさんの独り言だと思って聞き流してね・・・


もっと鈍感に生きよう



本当に私もそうなんですが「常識」という感覚を基準にしていると、そこに当てはまらない自分や他者を認めることってとても難しいんです。
(これは私がINTJなことも関係あるかもしれませんが・・・)


「社会的に当たり前なことができていないのはおかしい」と決めつけてしまう。


それってとても苦しいんですよ。



だって、できて当たり前って思っていることなんだから。


自分ができないとしたら「おかしい」「変」、相手ができていないなら「なんで?」「どういうこと?」といちいち感じてしまう。


無意識に“当たり前に享受できる事象”だと期待してしまっているんです。


自分の中での「常識」が変わらない限り、継続的に違和感を抱きつづけることになる。無意識とはいえ、何度も期待を裏切り続けられるのはとてもしんどいです。



そんなふうに自分や他人を責めるような考え方はやめたいですよね。


 
もっとおおらかに、図太く鈍感でいたいな・・・

常識は偏見のコレクション


「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」

アルベルト・アインシュタイン



今の時代の常識は本当に上記の通りだと感じます。


いま誰もが持っている「常識」が偏見のコレクションだとしたら、常識に囚われることってなんて無意味なんだと思えてきますよね。




偏見を当たり前と思い込んで苦しむなんて無駄でしかないかも。

 
もう常識から解放されたい・・・




これからは何を基準にしたらいいか



「常識」についてのWikipediaがめちゃめちゃ勉強になったので、引用だらけになってしまうのですが・・・


常識は特定の社会の成員が共有し、前提として疑わない認識のことであるから、特定の社会に限定されない普遍性を条件とする真理とは時として相違する。哲学者の三木清によれば、常識の上位概念として良識(りょうしき)があるという。彼によれば常識人が常識を無謬のものとして受容し、常識を盾にして非常識を断罪するのに対し、常識に疑問を持てる知恵が良識なのである。

Wikipedia


※無謬(むびゅう)…誤りのないこと

※良識(りょうしき)…物事を深く見通し本質をとらえるすぐれた判断力のこと。



上記を見て、私自身が『良識』をもつ必要があったのだと気づかされました。



ただ、この良識は曲者で「物事を深く見通し、本質をとらえる“すぐれた”判断力」とも表現されている通り、良識を持って良識のある行動をすることはなかなか簡単なことではないんですよね。


先日以下の記事でも触れましたが、人間というのは本当にどうしようもない生き物です。



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一刻の欲望の為に我を忘れてしまうなんてことはザラにあります。どんなに気を付けていても、です。


自分が良識のある行動をしようと心がけていても、良識なんて持ち合わせていない人も本当に多いのでやはり日常生活の中で違和感を覚えることもあるでしょう。


とんでもない言い分で我を通そうとしてくるモンスターみたいな人間に遭遇することってありますよね。信じられないニュースも世に溢れています。


良識についてはもっと詳しく例を出している記事などを検索してみてほしいのですが、この『良識』は常識とは違ってなかなか変化しないものなので、何か基準が欲しい場合は良識的かどうかという基準で物事を判断していくといいと思います。


常識に比べて偏りなく、寛容に物事を判断できるのではないでしょうか。


まとめ



良識を持っていても誰も褒めてはくれませんが、良識のない行動で同じように良識のない人間に関わるより少しでも良識のある行動を心がけて同じように良識ある人と関わっていきたいですね。


 
ほんと、もっと気楽に生きたいな・・・




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